青年は東京の信濃町駅で空襲警報を聞いた。
母の手を握り、火の海を走った。
だが混乱の中で手が離れてしまう。
次の瞬間、母は炎に包まれた。
昭和20年5月25日は...
悔恨と贖罪の念がその青年・宗左近氏を詩人に変えた。
詩集『炎える母』を編んだのは空襲の22年後。
詩は幾たびも「母よ」と繰り返される。
「母よ/いない/母がいない/
走っている走っていた走っている/母がいない」
「母よ呪ってください息子であるわたしを」
あの戦争で親やきょうだいを救えず、
自らを責めた子は無数にいただろう。
愛するわが子を失い、
天を仰ぎ慟哭した母も数えきれないほどいたはずだ。
当時17歳の池田先生も、
5月の空襲で家を焼け出された。
やがて出征していた長兄の訃報が届く。
母は戦死公報を握り締め、小さな背中を震わせた。
“庶民の母たち”
に思いをはせたものだった。
母よ あなたの/思想と聡明さで...
春を願う/地球の上に/平安の楽符を 奏でてほしい……。
全ての母と子のために、平和を、平和をと誓う。(之)